「旅景」 大竹伸朗 人は様々な理由で旅に出る。時々他人にとっての旅の必需品について考える。 旅の前日、他人は何を真っ先にカバンに詰めるのか、そんなタワイのないことだ。 自分にとって旅の必需品、それは今も昔も筆記用具と簡単なカメラだ。これは18の時初めて北海道に行った時から変わらない。 筆記用具といっても特別なものでは全くない。文房具屋の店頭に吊るしてある筆ペン、これが5本くらい、鉛筆、色鉛筆、カッター、短かめの定規、そしてハードカバーのスケッチブックとメモ帳でもカバンに放り込めば気分はかなり旅モードに突入する。 これだけあればたいていの退屈な時間からは解放される。パソコンや文庫本より確実にランクは上だ。空港からメールしたり人が書いた架空話を読んでいる場合ではない。自分が何かをつくるのだ。 旅先で目の前を通過する風景やら人物をできるだけ描き、絵のページが増えていくのをペラペラと感じそしてそれらを描いた場所と日付けを右下に書き込むこと、単純な話そんなことに興奮を覚える。 筆ペンスケッチはこの25年間飽きたことがない。紙の上のインクの乾きを待つのももどかしい。 出だしの一筆の墨線にガックリくることも多々あるが、目の前の光景を素早く描き写し、旅の時間が絵として定着していく様を見ること、それは自分にとって比較するものがない最高のゲームでもある。 十数年前、ピカソの聖地マラガからジブラルタル海峡を船で渡り灼熱のモロッコを訪れた。タンジール港に降り立った時、奇妙な時間の流れを感じた。 港から逆光に浮ぶ町中へ移動中、見るものすべてがうらやましく時にせつなく、そんな感情はいつしか真夏のモロッコ熱波に絡まり覚えたことのない嫉妬心となって心に沸き上がった。 何かが目に入った瞬間、これは筆ペン、こっちは鉛筆、あれはコラージュであそこは写真と振り分けられつつ自分の中に入り込み、狂おしく過ぎ去る時間にどうにも追いつかない感覚に包まれた。 旅先では日本国内と同じく、風光明媚な場所にはほとんど興味が湧かない。 ボロボロに崩れかけた家の壁、ゴミ回収日露地に放置された段ボ-ルの佇まい、廃屋や古看板、それらに深い感銘、新鮮な驚きを感じることが多い。見た瞬間にスッと心に入り込む得体の知れぬ何かの塊に反応する。それは日本にいる時もあまり変わりはない。 見たモノや光景を理解しようとする、といったことでは全くない。目の前の空気や佇まい、気配といったものを感じ体内に覚え込むのだ。時に簡単な配置スケッチや色を文字で書き止めたり、簡単なメモスナップを撮ることもあるが、進行形の状況で「感じ」を覚えること、それが自分にとって一番重要だ。そこには見ることとともに風、気温、湿度、匂い、光それらのすべてが複雑に絡み合う。 稀にそれらすべてが身体に入り込んでしまった感覚は、長きにわたり身体から去らない。 10年以上経ちいきなりその時の感覚が鮮明に蘇り、昔訪れた場所を再び絵にしたくてたまらなくなることもある。 モロッコから戻って10年以上の月日が経つが、いまだに体内の「モロッコ菌」が定期的に蠢く。 その菌は内側に巣食い続け次々と異なる衝動因子を刺激する。 その地で初めて網膜に写り込んだ光景は、時間を超え自分の内側と外側への出入りをくり返しつつ突発的な制作衝動を伴い奇妙な「旅景」として心に浮上する。 「旅と時間」、それは「絵と自分」といった関係にすごく似ている。旅の前日カバンにスケッチブックを詰め込む時、いつもそんなことを思う。 |